博物館と学芸員の紹介
阿蘇をガイドします
阿蘇に関するテーマ展示
修学旅行生などの受入れ
催し物や講座の案内
阿蘇を愉しむ会
阿蘇を研究する学生の支援
阿蘇の写真資料とエッセイ
阿蘇の自然と文化
阿蘇に関する質問と回答
ビブリオグラフィー
阿蘇に関する本やCDの販売
阿蘇の美味しいもの
阿蘇やエコミュージアムに関するリンク集
谷博からのお知らせ
home
谷人の心象
images of tanibito those who have lived in Aso region, Japan
this page's last update: Jan/24/2005

阿蘇たにびと博物館は、阿蘇谷・南郷谷の草原に生きる「谷人」たちの 民俗文化を調べ、それを伝えていく博物館です。
aso tanibito assomusee is the museum which researches tanibito have lived in Aso region, Japan.

●博物館がこれまで発信したデータのアーカイヴです。無断転用を禁じます
 ※2003〜2006年度まで「谷人の心象」と題してトップページ上で掲載していました。
●文章の引用元はサイトではなく、収録『谷人』号でお願いします。
 例:「阿蘇たにびと博物館サイトから引用」ではなく「『谷人』14号から引用」
●2003年度から行なっている婚姻民俗調査の進捗状況はこちらです。
〈豆知識〉「コントロールキー+F」を使えばページ内でキィワード検索ができます。


2003年 2004年 2005年 2006年 2007年 谷人メール ギャラリー(英語) エコミュゼ入門


2003年5月表紙(『谷人』12号収録)
巨人大会
 阿蘇郡白水村吉田新町の興梠今朝義氏(故人)のアルバムから見つけた写真。 タイトルに「南郷谷巨人大会」とあった。写真に写っているのは白水の人だけでなく、 高森の人や長陽の人もいるので、確かに南郷一帯から集まっていたようだ。しかし、 この聞きなれない大会に関して知っている人はあまりに少なく、詳しい状況が分からない。 息子の二雄氏(昭和3年生)は、自宅の料亭がこの「大会」の集まり場所だったことから かすかに記憶が残っているという。背景や人物の服装から判断して、写真の場所は恐らく 現在の吉田新町にあった料亭「辻の家」前、時代は昭和7〜8年頃ではないかと推測する。かつて、 人並み外れて立派な体格を持った男たちが、毎年1回、料亭に集まって酒をのみ、親睦を深めていたの だろうというが、当時の「巨人」とは、およそ体重にして100kg、身長にして170cmは超えるような 者を云ったらしい。恐らく会費制か何かで、戦後しばらくまでは続いていたのではとのことだが、 それにしても昔の人たちは愉快な集まりを開くものである。いったいどんな活動を していたのか、今となっては誰にも分からない。
写真: 興梠二雄氏(阿蘇郡白水村新町)所蔵、233吉田、昭和7〜8年頃か

2003年6月表紙(『谷人』12号収録)
出会祝儀
 阿蘇では結婚式のことをシュウギ(祝儀)という。写真は、阿蘇郡白水村吉田新町の料亭「辻の屋」で 行なわれたもので、時代は戦前、昭和初期のものと思われる。当時ふつうの農家では、聟(むこ)側の自宅で 嫁側を招いて行なわれるのが一般であり、このように両者が自宅を出て別の場所で結婚式を挙げる今風のやりかたは デアイシュウギ(出会祝儀)と呼ばれる珍しい形だった。仲人はナカダチ(仲立)と呼ばれ、聟側と嫁側双方に夫婦で 立てられる場合が多かったようだ。もし離婚でもしようものならこれら全員を説き伏せねばらならず、現実的には不可能 だったろう。しかし仲立自身も相当大変な仕事で、よく「ナカダチするよりサカダチせい」と言われていた。つまり、 逆立ちした方が余程楽だ、という意味である。農村にとっては、祝儀は農閑期の一大イベント、宴とご馳走、冬の大きな楽しみだった ようである。
写真: 興梠二雄氏(阿蘇郡白水村新町)所蔵、233吉田、戦前

2003年7月表紙(『谷人』12号収録)
火口野球
 観光土産用に売られていた絵葉書で、「国立公園大阿蘇山 休止中の第二火口にて野球戦を成す猛者の奇観」とあるが、 猛者というか何というか、なにもここまでというのも正直な感想である。阿蘇火山博物館の池辺館長によれば、かつて 阿蘇町の住人たちが第四火口付近で人寄せのために野球大会を開いたことはあるらしく、熊日『新・阿蘇学』には「昭和7年、 阿蘇中岳第3火口底での野球風景」としてこれとよく似た写真が載っている。この写真がそれらと同じものかどうかはまだ 定かでなく、だいいち火口名もバラバラだし、絵葉書は「休止中の」といいながらちゃんと噴煙が上がっている。怪しげなる 資料ではあるが、しかし無類の野球好きが阿蘇に多いのは事実である。日曜などに社会人試合があるが、四球も盗塁もちゃんと ある真剣勝負なので、素人は近寄らないほうがいい。それにしてもこの試合、火山灰上でさぞやりにくかったろうと推察する。 ファウルを取りに行くのはかなり怖い。
写真: 阿蘇たにびと博物館所蔵、000山上、昭和7年か
阿蘇町坊中で写真屋を営まれていた川崎安喜氏撮影の物であろうと思われます。


2003年8月表紙(『谷人』12号収録)
鎮火祭
 白水村吉田新町地区に伝わる火伏地蔵さんのお祭りである。阿蘇の火除けとしては、北では秋葉様、 南では地蔵様が多いようにも感じられる。南郷谷の夏祭りというと今では高森の風鎮祭が大きいが、 かつては白水の鎮火祭が賑わったようだ。仮装行列にニワカ、それにヤマと呼ばれる造り物が奉納され、 町中曳いたことから祭りはヤマヒキ(山曳)とも呼ばれたが、残念ながら現在は青年によるニワカしか残って いない(しかし毎年3つも出し続けたとはツワモノである)。 写真は昭和27〜29年頃のもので、横町組による「蛇踊」の仮装行列の様子と、右後ろに「寿老神」の造り 物も見える。新町はかつて牛馬の市として栄えた町で、後ろにも見える旅館からは芸者たちの 三味線が聞こえて賑わったという。そうした風景を再び見ることは叶わないが、今も残るニワカの芸を 眺めながら、在りし日の新町に思いを馳せるのも一興だろう。
写真: 興梠二雄氏(白水村新町)所蔵、233吉田、昭和27〜28年頃か


2003年9月表紙(『谷人』12号収録)
一畝競作会
 戦前の白水村両併の写真で「阿蘇郡農友会水筒稲一畝懸賞競作会米摺の実況」とある。一畝競作会とは、 1畝でどれだけ米が作れるかを競う会である。ちなみに1反は10畝、1畝は約30歩、約100平方m、つまり1a。 それで収穫はといえば、その頃1反で6俵前後(いい所で7〜8俵)というから、1畝では0.6〜0.8俵、1俵に4斗 入るから 2〜3斗前後で競ったことになろうか。写真を見ると、さすが阿蘇の農民は農作業のときもいつも ぴしゃっと正装である。のはずはなく、これは大会用の格好で、恐らく左エンジン周辺が審査員、中央マンゴ ク(万石)より右後方が選手だろう。しゃがんでいるのは選手代表だろうか、手に一斗枡、その下に一升枡、 その右は道具入れか何かか。ところで普段の籾摺りといえば、家族親戚総出の加勢(阿蘇ではイートリという) 仕事だったが、機械の発達でその労苦は減り、今では立派なライスセンターが建っている。しかし機械増えて 機会減る、人々が共に集い、汗を流して笑い語らう機会が減ったのも事実で、嬉しいような悲しいような時代 の流れでもある。私たちにできるのは、それを伝えることだろう。
写真: 後藤敬喜氏(白水村両併)所蔵、231両併、昭和12年11月20日

2003年10月表紙(『谷人』12号収録)
青年団
 若者組とか青年団という単語は、民俗学の教科書には必ず出てくる語である。というと、現役であった世代の 方々には隔世の感があるかもしれない。元々ムラ社会における若者の集まりは自然発生的なものだった。ムラで 生きていくための作法、知恵、人情、掟などがここで教育され、いわば自主的な地域の学校であったといえる。 それだけに同世代間の連帯感は強い。その機能に目をつけたのが国家であり、彼らを統率し、全国的な組織に 組み込むことで、結果として彼らを戦争へと駆り立てていった。その苦い思いがまだ全国には根強く、例えば 白水村吉田新町の若者も「自分たちは青年団ではなく、青年」という。その理由はもう自覚されてはいないだ ろうが、明らかに国とのしがらみを断ち切ろうとした名残りである。写真は終戦後、明神池での新町青年の花見 であり、当時は男女一緒で「青和会」といったようである。左の太鼓はこの町の祭り「山曳」のもの。楽しみの ためで、特別な意味はないそうだ。
写真: 後藤道介氏(白水村新町)所蔵、233吉田、昭和26年4月8日

2003年11月表紙(『谷人』12号収録)
八面社
 阿蘇郡白水村両併にある市下神社で、旧市下村の氏神である。白水村の小字には市下と下市とあって大変紛らわしい。 この下とか上の方向感覚はどこが基準かも調べねばならないが(逆に市上や上市はない)、南郷谷では何と なく東側が上と呼ばれている感じだ(標高のためか高森町との関係か)。市下神社は地元では八面社と呼ばれている。 八面も方向であるが、その祭神は不明で謎だ。しかし例えば大分県三光村の八面山が修験の山として有名であり、 恐らくそうした修験との関係があったのかもしれない。社正面に聳える根子岳から来たかとも考えたが、根子岳の 別名は「七面山」であり1面足りない。またこの神社に伝わる神楽の伝承も途切れている。 現在までにこの地から6つの神楽面と『頭昭流御神楽伝記』(明治17年)なる古文書が見つかっているが、その内容は もうさっぱり分からない。頭昭流とは何なのか、明治に何があったのか、つい最近のことなのにもう分からない。
写真: 後藤敬喜氏(白水村両併)所蔵、231両併、昭和27年6月

2003年12月表紙(『谷人』12号収録)
戸下温泉
 阿蘇郡長陽村立野の火口瀬にあった幻の温泉街である。現在は、向こうの山側からこちらに向かって 長陽大橋が渡されており、その橋桁の部分にあたるが、全く何の跡形もない。かつて阿蘇大橋 (昭和45年)ができる前は、南郷谷へはこの「七曲り」と呼ばれた道を入るしかなく、南阿蘇は取り 残された遠い存在であった。戸下温泉の始まりは明治15年。黒川と白川が合流する渓谷美、北向山原生林(写真右) を眺める風光明媚な温泉宿「碧翠楼」は、夏目漱石や徳富兄弟も投宿した高級宿だったが、昭和59年の立野ダム損失 補償交渉妥結調印により百年の歴史を閉じた。写真左の石橋は明治33年製、その袂にはバス停や森豆腐店があった。 隣の栃木温泉は高所に移って現代に残ったが、この戸下しかり、湯の谷しかり、かつての阿蘇を代表する老舗温泉の 消滅は、やはり寂しいものがある。
写真:江藤政光『長野一誠翁』掲載複数写真より当館作成、214立野、昭和60年頃か