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阿蘇の博物誌
natural history in Aso
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阿蘇たにびと博物館は、阿蘇全体を博物館とし、阿蘇に生きる人びとと自然との関わりを研究して伝えていくエコミュージアムです。
aso tanibito assomusee is the museum which researches tanibito living in Aso region, Japan.

自然だけでもない、文化だけでもない、その双方の関わりをダイナミックに記述するのが「博物誌」の醍醐味で、博物館の大きな仕事であります。ここでは各分野の学芸員から、阿蘇を見るさまざまな視点をご紹介します (文章や画像の借用はひと言ご連絡下さい)
阿蘇に関するご質問がありましたら質問箱のページをご利用下さい。


考古学  歴史学  民俗学  地学  植物学  動物学
 民俗
産婆
『谷人』創刊号より抜粋)
 白水村吉田新町の塚本サヨ子さん(大正11年生)から聞いたお話。産婆さんは村内に数人いた。最も古い人が白川の御手水にいた高原さん、次が新町の藤本さん、そして最も若い直野さんも新町だった。高原さんは明治〜昭和20年代くらいまで活躍していただろうか、現在の老人でこの高原さんに取り上げられた人も多い。直野さんは大正5〜6年頃の生まれだろうか、彼女が活躍するようになるのは昭和に入ってからである。皆からはおタカさんと呼ばれていた。藤本さんはその2人の間に活躍した人だった。3人はそれぞれ活躍の時期が少しずつ重なっていて、誰に頼むかは家の付合い関係で決めていた。産婆としての付合いは、出産がすんでそのお礼をしたところで終わり、後々まで特別な付合いをすることはなかった。お礼はお金で、いくらだったかは忘れたが、たしか数円を払っていた。その後昭和40年代に高森に母子センターができたのでそこで出産する人が増え、産婆たちもそこに勤めるようになった。お産はこうして40年代に徐々に家から病院に移ったように思う。センターの先生は本田さんといったか、よく覚えていない。しかしそこも今から25〜30年前ほど前までだろうか、戦後はだんだん吉村産婦人科など熊本市内に出産に行くようになったので、そのセンターも今ではもうなくなってしまった。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

出産『谷人』創刊号より抜粋)
 妊婦について特に変わった呼び名はなく、普通ニンプサンと呼んでいた。出産の方法は、自宅で横に寝て産んでいた。座って産んだという話は聞かない。「青竹ば握り潰さんと産まれん」などといわれていたが、実際に青竹を握って産んだことはない。それだけお産がきつくてヤオイカンというたとえ話だろう。お産も軽い人と重い人がいる。子どもが小さければお産が軽いとも限らない。子どもは1貫目(3750kg)もあれば大きいものだった。双子の兄弟は、後から生まれたほうが兄という人もいれば、その逆という人もいる。男が生まれるか女が生まれるかは、冗談交じりに、胎動の動きが激しいときは男の子、大人しいときは女の子などといっていた。また母親の顔色で占うこともあり、優しい顔つきだと男の子、険しい顔つきだと女の子などといっていた。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

腹帯『谷人』創刊号より抜粋)
 妊婦はある時期にくると腹を落ち着かせるために帯を締めていた。この帯をハラオビと呼んでいたが、イワタオビ(磐田帯)と呼ぶこともあった。巻くのは妊娠して5ヶ月目の戌の日で、犬はお産が軽いというのにあやかったものである。初めて帯を巻く日をオビイワイ(帯祝い)という。帯は晒しだが、長さは1反ほどか、よく覚えていない。帯祝いの日は、今は家によって仲立さんを呼んだりして祝うが、昭和16年頃にはそういう祝いはなく、ただ巻いただけだったように思う。当時は戦争でそれどころではなかった。巻くときに産婆を呼ぶようなこともなく、毎日のことだし、最初から自分で巻いていたように思う。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

妊婦の食事『谷人』創刊号より抜粋)
 フダンソウ[不断草:アカザ科フダンソウ属の2年生、ビートに似る。ホウレン草のおひたしや和え物のようにして食べる]と呼ばれる野菜や椎茸は、出産後しばらくは食べてはいけないとされていた。また鯖などの青魚も食べてはいけないといわれていた。今では栄養も良いので食べるが、昔は血の道に良くないとされていたのだろうか。逆に食べたほうが良いといわれたのは餅や餅米である。食べればお乳が出るといわれていた。母乳が足りないときは重湯を与えることもあった。重湯は、米をドロドロに炊いて汁にし、砂糖を少し加えて作った。ほかにモライヂチ(貰い乳)といって、他の妊婦で乳が余っている人から乳を貰うこともあった。妊婦同士が近寄ってはいけないなどという話は聞かなかった。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

出産『谷人』創刊号より抜粋)
 いよいよ出産するときには、急いで産婆さんを呼んでくる。出産のときには男は絶対近寄ってはならないとされていたが、人によっては産湯を沸かす男の人もいた。出産場所は、いちばん奥の暗い部屋が多かった。畳はそのままで剥いだりせず、産婆さんが布団の上に何か敷くくらいだったと思う。出産したときに出てくる胎盤はアトザン(後産)といい、壺に入れて蓋をして、居間の畳を上げて地面の下に埋めていた。埋めるのは主人だが、どうしてそう埋めるのかは分からない。後産が終わるまではお産は終わらないといい、後産のほうが苦しいこともあった。ヘソの緒も産婆さんから渡されたが、たいていそのうちにどこかいってしまった。出産後も産婆さんがお湯を使わせに1週間ほど通うが、その後は家族だけで赤ん坊の世話をした。日明きの日まではタライで赤ん坊の身体を洗うが、日明き後は大人と同じで普通の風呂で洗った。洗った後のお湯は別にどこに捨ててもよく、適当に風呂場などに捨てていた。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

日明き『谷人』創刊号より抜粋)
 出産後は身体を慎み、神社などにも参らないようにするが、その忌みが明ける日をヒアキ(日明き)という。日明きの期間は女の子なら32日間、男の子ならば31日間である。また「産後15日」といって産後15日間は特に身体に気をつけていた。この理由は分からないが、ひょっとしたら産後を3×5にひっかけたものだろうか。神社には参らないようにしていたが、神棚くらいならば大丈夫だったと思う。期間が過ぎるとヒアキイワイ(日明き祝い)というお祝いをする。今は仲立さんや親戚なども呼んでいるが、昔は家族だけの内輪祝いで、産婆さんも特には呼んでいなかった。この日、近所のトナリグミ(隣組)や親戚からお祝いの品物が贈られてくるので、お礼に家から紅白の餅を搗いて配っていた。お餅は重箱に詰めて配った。大きい物なら2個、小さい物なら3個か5個を詰めるが、4個はいけないとされていた。お祝い品は赤ちゃんの着物やお金などで、その時々によって異なる。ご馳走は吸い物や酢で和えたスアイなどが出たが、赤飯が出たかどうかはよく覚えていない。また、この日初めてお宮に参る。これをヒアキマイリ(日明き参り)という。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

誕生祝い『谷人』創刊号より抜粋)
 子どもの最初の誕生日をタンジョウイワイといって、餅を搗いて家で祝う。大きな餅を作り、その上に子どもを座らせる。この餅をタンジョウモチと呼ぶ。子どもには米を入れた袋を肩から斜めに背負わせる。そして目の前に筆や鉛筆・算盤・はたき・ハサミなどを並べて、どれを取るかで子どもの将来を占ったりして楽しむ。例えば、筆を取ると頭が良くなるとか、算盤を取ると商売上手などといって盛り上がっていた。またこのときに、あまりしっかり歩き出す子どもは、わざと軽く押し倒していた。子どもが将来あまり早く遠くに行ってしまわないようにとの願いであったろうと思う。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

仲立『谷人』3号より抜粋)
 白水村吉田新町の興梠二雄氏(昭和3年生)と万代子(昭和8年生)ご夫妻に聞いた話。結婚する聟と嫁を取り持つ仲人をこの辺ではナカダチ(仲立)さんという。結婚話を持ってきた者がそのまま仲立になるのがほとんどである。キモイリドン(肝煎殿)が話を持って来たときには、肝煎殿がそのまま仲立になる。仲立さんはまず双方の家を訪れて両家に結婚の話が立つと、その挨拶と承諾のために何回も嫁の家に通う。これをヨメゴモライ(嫁御貰い)という。挨拶には、場合によっても異なるが、少なくとも最低7回は通わねばならなかった。最初に軽く打診した後、2〜4回くらいでだいたい了承を貰っても、さらにその後2〜3回は通ってお願いをせねばならないからである。もちろん実際にはさらに数回通う場合も少なくなかった。これは、たとえ本当はどんなに娘をやりたいと思っていても、嫁側はすぐにやるという返事をしてはならないとされていたからで、もしすぐにしたりすると、娘が傷物に見られたり、軽々しい行為をする家だと見られてしまう。ただし、わざと何回も断って、結果的に嫁を盗んでもらうような形をとるような話はこの辺りでは聞いたことはない。ともかく嫁側は何回かは話を断らなければならないのが作法だったから「娘本人は良いといっているが、まだ親戚にも聞いてみないと」などと色々よその理由をつけられて断られて、仲立の仕事は最初からとても大変だった。それでよく「ナカダチするよりサカダチせい」などと冗談でいわれていた。仲立は、聟側に夫婦で2人、嫁側にも夫婦で2人立てられたから、合計4人である。今でもこの辺りは仲立を4人立てる家も多い。縁起も担いで、後家さんは仲立にはなれなかった。最初は聟側の仲立しかいないのだが、何度も嫁の家に通ううちに、だんだん話が決まってきたら(4〜5回目くらいか)、嫁側にも仲立が立てられる。嫁の家に通うのは夫婦のうちどちらか一方だが、どちらが通うかはまちまちで、女のほうが話がしやすいので奥さんが行くことが多かったようだが、奥さんが静かな人だと旦那さんが行ったりという具合で特に決まってはいなかった。そうしていよいよ結婚の承諾が貰える最後の挨拶のときには、双方の仲立が4人全員揃ってお互い挨拶をする。これをクチガタメ(口固め)という。それまでは普段着で通っていても、この日だけは正式に紋付袴を着て訪れる。またこの日は、嫁側の親族も全員集まって参列する。聟側は酒と魚(何の魚だったかは覚えていない)を持って行き、挨拶を交わしたあと、口固めの杯を交わす。そしてこの日に結納の日取りを決める。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

結納『谷人』3号より抜粋)
 白水村吉田新町の興梠二雄氏(昭和3年生)と万代子(昭和8年生)ご夫妻に聞いた話。両家の間で結婚の話が承認されると、後日改めて聟側の仲立と聟が嫁の家を訪れ、正式な結婚の約束を交わす。これをユイノウ(結納)という。結納はだいたい結婚式の1週間〜10日間ほどのダイアン(大安)の日が選ばれた。聟側はこのとき、嫁側に酒や魚、それに色々と手土産を持って行く。魚は鯛である。手土産品は決まっていて、例えば嫁には結婚式のときに着る着物を、嫁の父には扇子を1本、嫁の母には風呂敷や反物を贈った。反物は1反ほどだろうか、もし羽織分まで入れるなら2反ほど贈っていた。他にオジやオバ、兄弟たちにも贈物を用意した。これらの贈物をチャオサイという(意味はよく分からない。チャは茶だろうか)。この日の格好は紋付袴である。またこの日、嫁側からは嫁入道具を聟の家に運び込むので、聟側はムラの若い衆を4〜5人選んで一緒に嫁の家まで連れて行った。嫁入道具は箪笥なので、彼らはタンスモチ(箪笥持ち)と呼ばれた。箪笥の中には、嫁の着物や帯なども一緒に入れられる。着物は普段着だが、あとでこの箪笥は聟の家で披露されるので、あまり貧相な物は入れられなかった。そのため箪笥もなるべく良い物を奮発していた。箪笥の良し悪しは、材質もさることながら、金具によっても決まっていた。娘が嫁に行くとなると、指物大工(障子や箪笥を作る専門の大工)に注文を出して作ってもらうが、大工はその家の経済状況などをみて、適当な金具を選んでくれていた。お金持ちの家なら、高価な金具が付くといった具合である。指物大工は南郷谷にもいたし、市内に注文を出す家もあった。箪笥の材料は桐が最高とされていたので、どこの家の庭にも桐もしくはケヤキが植えられていた。ただし娘の親の代が植えたものでは間に合わないので、その上の祖父以上の代が植えたものを使う。そして娘が嫁に行くとなるとその桐を伐って箪笥を作り、また庭に新しい桐を植えるのである。桐は箪笥の他にも下駄にも良いとされていたので重宝した。桐下駄は軽くて最高級品であるし、下駄屋ならこの近所にも大勢いたのでよく頼んで作ってもらっていた。箪笥を買うお金は嫁側が出すが、これは聟側が持ってきたユイノウキン(結納金)で購っていた。勤め人なら給料の2か月分ほどだったろうか、とにかくお金で支払っていたと思う。自分たちでは確認していないので金額はよく分からない。こうして結納や結婚式にかかる費用はたいてい聟側が出していた。結納の日、聟側が嫁の家までやって来ると、簡単な酒宴の準備がされていて歓待を受けた。箪笥持ちの若者たちも一緒にご馳走にあずかる。彼らはいよいよ嫁の家から箪笥を運び出すときに、顔全体や鼻筋に1本白粉を塗られて、笹につけた水を上から降り掛けられた。振り掛ける人は誰だったか忘れてしまったが、近所の手伝いの人ではなかったろうか。白粉も近所の人たちが塗っていた。水はどこの水でもよい。笹は嫁の家が事前に用意していた。たまにふざけて笹どころかバケツで水を掛けられる者もいたが、これは別に腹を立てるほどの悪戯ではなく、笑って過ごしていたように思う。帰るときには箪笥持ちたちもお酒を飲んでふらふらだし、箪笥もかなり重いので、箪笥持ちにはあらかじめ馬車で向かっていた。箪笥持ちはかなりきつい肉体労働なのだが、嫁の里であちらの若い娘さんたちにも会えるとあって、みな喜んで志願していた。また向こうの娘さんたちも、そうした若い衆をひと目見に来ていたので、若者たちも「白粉を綺麗に塗ってくれ」などと注文を出していた。そういう出会いの場そのものが1つの楽しみだった。聟の家に運ばれた箪笥は、後日聟の近所に案内が回ってきて一般に披露された。この案内をタンスミ(箪笥見)の案内という。箪笥は家の座敷など、外からよく見える場所に置かれた。そのため前述の通り、あまり妙な物は入れられなかった。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

御前迎え『谷人』4号より抜粋)
 昔の結婚式はだいたい夕方頃から始められるので、昼過ぎには聟側から嫁の家まで嫁を迎えに行く。これをヨメゴムカエ(嫁御迎え)とかヨメサンムカエという。出掛けるのは聟と、聟の仲立夫婦と、聟の友人が1人の合計4人。この友人はムコワキ(聟脇)といい、仲の良い友人が1人選ばれる(もちろん男である)。嫁側にはヨメワキ(嫁脇)がつく所もあるがつかなくなった所も多い。昔はろくに聟の顔も知らずに結婚することも少なくなかったので「どっちが聟か間違われんようにせなんといかんよ」などとよく冗談で言われたが、実際に、聟脇にはあまり美男子はまずかろうということで相応の若者が選ばれていたらしい。この日の聟側の格好は紋付袴。嫁の家に着くとまず仲立が「本日はお日柄も良く・・」と口上を述べる。そして酒宴の用意ができているのでそのまま嫁の家で簡単な宴会をする。嫁側の親戚たちも皆集まっているので同席する。段々時が過ぎて式の時間が近づくが、嫁側からは決して出発を促さない。嫁側が仲々出さないので、聟側の男の仲立がまだですかと急がせねばならないのが作法である。いよいよ出発となると、嫁は家の仏壇にお参りし、両親の前に座って挨拶してから家を出る。出るときに1つ作法があり、玄関を後ろ向きに出る。つまり普段とは逆で、家を見ながら出るのである。これはもう2度と戻って来ないようにという意味だと思う。またこのとき杯を地面に叩き割ったような話も聞くが、よく分からない。家を出ると、近所の人たちが大勢ヨメゴミ(嫁御見)の見物に集まって来ているので、その間を通り抜けていく。聟の家まで1キロほどならそのまま歩いて行くが、数里あるような遠い家なら牛や馬に乗って行く。馬車を使う者もいたが、揺れて髪や着物が乱れるので使わないという者もいた。夕方暗ければ行列の先頭は提灯を持って歩く。旧家の提灯には家紋が入っていた。道中では長持唄や田植唄などの祝唄が謡われた。嫁の親戚たちは同行せず、あとから別に来ていた。聟の組内にトラックを持っている人がいて、それに乗って大津から白水まで一気に嫁に来た者もいる(昭和20年代前半のことである)。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

品種『谷人』6号より抜粋)
 白水村吉田の梅田学さん(大正元年生)にお聞きした話。戦前にはフクシン(福神)やシンリキ(神力)といった稲の品種を使っていた。戦後しばらくまでは使っていたと思う。福神は、久木野村の市原ツギさんという方が、ある日田の中に特別大きくて珍しい稲を1本見つけ、それを改良したものだと聞いている。福神も神力もどちらも長かんで、人力でも簡単に籾がアユる品種だった(アユるとは外れ落ちるといった意味)。稲は刈り取ってコヅム(小積む)が、そこを犬が登ったりするともうアユるほどなので、刈り取るときにはアエんようにそろっと刈っていた。今のコシヒカリヤヒトメボレなどの品種はみな機械でないとアエんので、機械が流行ってきてからの品種である。センバ(千歯)ならなんとかなるが、今の品種は人力ではとてもアエん。戦後はタカラという品種が出てきて、味が改良されて良くなった。田の米を作っていない人は、畑にノイネ(野稲)を作っていた。キリシマという品種だったが、これは千歯を使わないとアエんかった。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

種籾『谷人』7号より抜粋)
 白水村吉田の梅田学さん(大正元年生)や吉田新町の和田サエさん(大正12年生)にお聞きした話。翌年のための種籾は、今年できた稲のうち、倒れていないとか籾付きが良いなど特別良くできている所を選んで取っておく。種籾だけは他の稲とは別に小積み、翌年の田植えまで大切に保管した。カマゲ(カマス)に入れて2ヶ所ほどくびり、ニワ(土間のこと)に保管するが、グベンシャ(分限者)のような大きな農家ならば俵に入れて5ヶ所ほどくびり、蔵に保管していた。ニワに置くときは地面に直接置くとネズミや虫が来るので、棚など少し高いところに上げておく。米の他にも餅や粟など色々な種籾があったので、分からなくならないように紙に名前を書いてカマゲに付けておいた。戦後は亜鉛のグァングァン(缶々)も出てきたが、これに入れるのは食べるほうの米で、種籾を缶々に入れることはまずない。空気の出入りがなくなり、翌年あまり育たないといわれたからだ。またあまり乾燥させても固くなって良くないといわれたので、種籾は刈り取って小積んだあと、脱穀したらそのままカマゲに入れていた(普通の食べる米は小積んでからネコブキに広げて1ヶ月ほど乾燥させる)。種籾を刈るときも、昔は手で刈っていたから良いが、機械が最初出てきたときは、そっと刈らんといかんといってゆっくり動かしていた。あまり乾燥させずに保管した種籾だが、翌年まで痛むことはほとんどなかった(ただし、古籾は赤くなることがあると聞いたことはある)。正月には、種籾にだけというわけではないが「大黒さんに」といって餅を供えた。ニワに置いてある農具類を代表して俵の上に餅を置き、ミカンも供える。餅は米と粟のふた重ね(米が下)で、ゴバン(小判)の形にした。別に米だけでも良いのだが、大黒さんは粟が好きとのことで粟も供えた。年が明けていよいよ種籾を蒔くときは、まず空のシイラ(シイラミ)を外す。トウミ(唐箕)がある家は唐箕で、ない家はショウケ(竹で編んだザル)で風にかざしたりして外した。軽いシイラは風で飛び、身の入った種籾だけが下に落ちる。だから風が吹かないと一向に仕事が進まなかった。昭和40年頃まではそうした風景がまだ見られた。それから水(ただの水)を張った桶に沈め、浮いてきたシイラをさらに取り除く(いわゆる塩水撰が流行り出したのは戦後で、それ以前にはなかった)。そうして選別した種籾を俵に詰め、川に1週間〜10日ほど浸けてから苗床に蒔く。水に浸けるのは昔の天長節(天皇誕生日)、つまり4月終わり頃で、苗床に蒔くのは5月10日頃だった。蒔く量は家によっても異なるが、2〜3俵と、実際にそれほど使わなくても用心のためにたくさん用意していた。蒔き終わって余った種籾は、焼き米にして人も牛も食べていたが、戦後は衛生処理のために種籾を消毒液に浸すようになったので食べられなくなった。余った種籾の他にも、ミナクチ(水口)近くの稲も昔は焼いて食べていた。ここはずっとヒヤミズ(冷水)がかかるので田が温まらず、生育不良のアオゴメ(青米)になりやすかったからである。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

耕起『谷人』8号より抜粋)
 これまでの民俗学は、農村を対象としながらも農業そのものを分析することはあまりしてこなかったように思います。むしろ儀礼や行事、信仰などに注目してきましたが、これは農作業よりもその奥にある農民の心意のほうに関心があったからでしょう。しかし農作業自体から農民の真意を探ることも可能です。例えば田起し1つとっても、それをいつ、どうやってやるかは、土や水、天候、家や近所、牛馬の状況など、総合的な「判断」が必要です。土や水を農民がどう見ているか、その視角自体が彼らの真意であり、環境を切り口にした民俗学の対象となりうるはずです。戦前、阿蘇の田起しは年が明ける前からすでに始まります。クロマワシといい、コガラを使って牛で数回廻ります。春にアゼオロシ、アゼガキ、アゼヌリといった畦作りを始め、レンゲを見てマガ(馬鍬)で掻くクサガキ、田コガラでのスキオコシ、反対に返すクレガヤシ、馬鍬で土の固まりを崩すアラシロ・・と、実に多くの作業と月日をかけてようやく田植えとなります。田植え当日もウエシロといいまた馬鍬で掻きます。何故これほど多くの作業をかけるのか、何故正月前から始めねばならないのか(阿蘇ではフユズキ(冬犂)といいます)、それは阿蘇だけなのか、今はどうなのか、犂を何故コガラというのか、種類はあるのか、馬鍬とはどう使い分けるのか等々、その答えの1つ1つが農民の阿蘇を見る目であり、心意です。もう畦も塗らないご時世になりましたが、聞書きからそうした再検討はまだ可能です。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

にわか『谷人』11号より抜粋)
 熊本に来てびっくりしたものの1つに、ニワカの芸がある。驚くほどベタベタの化粧に、驚くほどド派手な衣装、そして驚くほど方言丸出しのドタバタ喜劇である。最初はただ驚いていたこの大衆芸能だが、調べてみるとなかなか面白い民俗(民族ではない)ということが分かってきた。ざっとみたところ、白水村の吉田新町、高森町の高森地区、最近では白水村の両併地区でもと、かなり阿蘇でも盛んなようだ。ニワカとはいったい何だろうか?にわかに雨が降るからニワカ雨など、ニワカは何かが突然起こったり急変したりすることで、そこから即興の洒落とか地口の芸も指すようになったようだ。要するににわかとは、そうした即興のお笑い芸とか「狂言」の一種というわけだ。また、にわかの語源として「庭神楽」から来たという説もあり、そのルーツはなかなかあなどれないものがある。もちろんニワカは阿蘇だけのものではない。熊本では肥後にわかと呼ばれるが、にわかせんぺいでお馴染みの博多も勿論盛んだし、佐賀にわかというのもある。九州以外でも、例えば岐阜県美濃市では毎年4月第2土日ににわかコンクールが開かれていて、囃子・扮装・演技・筋・オチの5項目で結構厳しく審査されている。総じて見てみれば、ニワカは町方の演芸といえるだろうか。さてこのニワカだが、やってる側からみてみると、そう簡単なものでもない。まず、すべてが即興で進められるということ。もちろん、台本とか脚本といったものはある。しかしいったん舞台に立てば、お客さんたちの顔を見ながらほとんど即興で話されるのだ。しかもバリバリ地元のコトバで。そのタイミング、アクセントの取り方など、実際笑いをとるのはかなり難しい。言葉の使い方はかなり皆で研究される。元々の地の言葉かどうか、慎重に吟味するのだ。このときばかりは、皆ニワカ国語学者となる。それからあのド派手な衣装だが、これはもちろん舞台上の演出もあるが、実は照れ隠しという部分も若干あるようだ。実際ニワカをやってみるとかなり恥ずかしい。恥ずかしいので、化粧を無茶苦茶濃くして金髪のかつらをかぶったりして誰だが分からないようにする。舞台を降りるまでお客さんたちから演者が分からなければ成功だが、しかしたいていはバレて「ありゃ、何とかさんとこの息子さんじゃろ」などと聞こえてくるとかなり恥ずかしい。そうなると緊張してきて台詞が上手く回らず、ますます笑いをとるのが難しくなってくる。そうなったときのためにか、うち辺りのにわかでは、事前にかなりの酒を飲むことになっている(笑)それからニワカで肝心のオチだが、ここにもメンバーはこだわっている。というか、むしろ台本はこのオチの部分だけが決まっていて、あとはすべてアドリブといっても過言ではない。オチを考えていて、それが単なる駄洒落だったりすると「駄目だ、こんなのはニワカじゃない!」などと結構真面目なのだ(例えば、にわかにはウチワが必需品だが、オチが浮かばんときには扇子を使いなっせ→ニワカにはセンスが必要、など)。ニワカは、庶民が世相を風刺するという特徴もある。常に時事問題などに関心を寄せていなければネタはつくれない(例えば、草野球の試合の必勝祈願に靖国に行ったが三敗してしまった→参拝だから、など)。また、オチはすぐには発表されない。最後のところで「分からんか?」「分からんなー」などともったいをつけるのである。このときに、お客さんたちは急いでオチを考える。見るほうも地口の才能が必要なのである。ここでオチを読まれてしまったら演者の負けである。逆になかなか優秀なオチは、世代を超えて語り継がれることになる。そしてこの辺りが地方ニワカの大事なところだと思うが、ネタに近所の話題がポンポン入るということである。誰々さんちが夫婦喧嘩したとか、あそこの息子が事故ったとか、1年間に起こった地元ネタが数々暴露されて、観客が大笑いするのが極めて特徴的である(ただし当人たちだけは恥ずかしそうに下を向くことになる)。だから、祭り前には近所の人たちは皆おとなしくなる。ネタにされないように気をつけるからだ。しかしこうしたネタを皆が笑えるということは、実は皆がそれを知っているということである。この辺りが素晴らしき田舎暮らしといった感じだろうか。こうした笑いが続く限りはまだまだムラ社会も健在という気がする。隣の人が何をしているのかまったく分からない都会の生活では成り立たない「お笑い」であろう。事実、町が大きくなって一般の人々に見せるようになったニワカは、地元ネタを避ける傾向がある。そういう笑いは地元の人々にしか分からないからだ。白水村のニワカと高森町のニワカを比べてみるとそういう違いが感じられる。そんなことを考えながら、真夏の夜の憩いにニワカ鑑賞も粋なものだ。吉田新町は23日の地蔵盆に、高森町は盆頃の日曜日ににわかコンクールがある。■文 梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員)

 歴史学
西巌殿寺
『谷人』11号より抜粋)
 阿蘇山西巌殿寺は神亀3年(726)インド毘舎那国の僧、最栄が聖武天皇の勅願により阿蘇山の火口の西の巌殿(洞窟)に刻んだ十一面観音を祀ったという説と、天養元年(1144)に比叡山慈恵大師の弟子最栄が阿蘇大宮司友孝の許しを得て阿蘇山上に庵を開いたという2つの説がある。前説は西巌殿寺歴代の住職の墓所にある石碑に由来し、後説は阿蘇家文書に由来する。現在と違い、この当時の「西巌殿寺」という名称は「惣寺号」といって1つの寺院を指すのではなく、西巌殿寺を構成する36坊52庵の寺院群全体を指す。阿蘇山上の古坊中において発展した寺院群は、慶長年間に入り麓に再建された。阿蘇山上の寺院群は、阿蘇家と島津・大友家の争いにより島津の軍勢が肥後に入った際、阿蘇山上より逃れたため自然に消滅したといわれている。阿蘇山には3つの種類の僧侶がいて、天台宗系の僧侶である衆徒、真言宗系の修験者である行者、衆徒や行者の下で仕える山伏である。この中でも山伏はその名の通り「山に伏せる」ことを旨として山中で修行を行なう。当然山から山へと歩き回り、諸国の情勢に詳しくもあった。そういう経緯で島津軍の肥後入りを感知したと思われる。そして御船に陣を取った島津軍に陣中見舞いを行ない、秘伝の巻子を差し入れている。肥後の国主として入国した加藤清正は、離散した僧侶たちを阿蘇山の麓の黒川村に住まわせ、36坊52庵を再建させた。学頭坊という寺を棟梁とし、36坊52庵をピラミッド型に組織しなおして、学頭坊に管理させた。また、年行事という役を新設し、藩への申請などはすべて年行事を通して行なわれた。同じ頃、阿蘇家の当主も阿蘇神社において祭祀を行なうため、阿蘇神社に戻されている。これは寺社を管理するという側面を持っている。特に阿蘇神社宮司の持つカリスマ性を警戒し、深い関係を持っていた西巌殿寺も当然監視の対象となった。それは細川家が肥後に入ってからも継承される。細川藩は効率的な藩運営を行なうために文書政策を徹底した。現在でも西巌殿寺文書として歴代の住職が書き残した藩への上申や下知の書類の写し、毎日の寺内での出来事や世の中の出来事を記した日記(学頭日記)が残されている。幕末までその習慣は受け継がれた。その古文書から、西巌殿寺は毎年1回熊本城において藩主の健康を祈願する祈祷を行なったことや、寺禄等に関する記述など、細川藩との関わりやどのようにして寺院運営を行なっていたかがわかる。1000冊近くに及ぶ西巌殿寺文書は、現在熊本大学図書館において管理されている。また、大日本古文書にも収められている文書は、阿蘇町の重要文化財に指定されている。明治に入り廃仏毀釈の影響を受け、多くの僧侶は還俗し、西巌殿寺の歴史は潰えようとした。しかし明治4年に黒川村有志により、阿蘇山上にあった本堂の移築が行なわれ、住職を置いて新たな形で西巌殿寺として存続されることになった。また、明治22年に、山上本堂の跡地に新たに山上本堂を建て、山上での祭祀を行なっている。現代に至るまで歴代住職は124代を数える。(なお、写真の根本中堂は平成13年9月22日、不審火により焼失)■文 鷲岡嶺照(西巌殿寺・住職)
 考古学
人の形跡
『谷人』11号より抜粋)
 阿蘇の遺跡の正式な記録としては、慶応2年(1866)の『蘇渓温故』や幕末頃の『蘇谷志料』がありますが、そこに記載されている中通古墳群(一の宮町、正式な調査は昭和24年)などの地上構造物を除いては、全く知られていないに等しい状態でした。その後、明治・大正期と外輪山の原野一帯から土器片や矢じり等が採集されて、ようやく「人」の形跡が学術的に確認され始めました。阿蘇は、度重なる噴火などの厳しい気象条件や、その独特の火山地形、やせた土地柄であることなどから、多くの学者も 「外輪山に『人』の形跡があっても、カルデラ内には古墳時代以前の遺跡は存在しない」と考えていました。そのため他の平野部に比べ、阿蘇の考古学は遅れをとったわけですが、驚きのビックニュースとなる発見が出てきます。大正4年(1915)の国鉄豊肥線敷設工事の際に、阿蘇町乙姫の鏡山下から青銅製武器型祭器が出土したのです(!)。簡単にいうと銅戈なのですが、阿蘇という山間部にありながら、これは北部九州系の平野部でみられるような有力な部族の存在を実証するもので、貴重な遺物で あります。何よりこの重要な遺物が、カルデラ内より出土したことが大きな発見となり、今まで考えられなかった弥生時代の遺跡の存在が、確実なものとされるようになりました。これを機に阿蘇の古代史が一躍注目されることになりますが、しかし当時は「宝捜し」的な遺物中心主義が横行し、埋蔵文化財に対する行政側の体制も確立されていなかったために、残念ながら正式な発掘調査等が実施されることはありませんでした。そのような状況下で、昭和41年(1966)に発行された文化財保護委員会(現文化庁)の 『全国遺跡地図(熊本県)』でも、阿蘇町で2遺跡、一の宮町で中通古墳群や手野古墳群など著名な古墳の他にも三遺跡が報告されましたが、この調査自体が不充分なもので、また地元でも(遺物等の出土は知られていたものの)公的な周知もほとんどなされませんでした。しかし昭和50年代に入ると目覚しい数の遺跡が発見され始めます。これは昭和42年から15年間にわたり実施された熊本短期大学(現熊本学園大学短期大学部)文化財研究会および九州学院高等学校考古学会の精力的なフィールドワークが大きく 貢献しています。学生諸氏がサークル活動の一環として公民館などに泊り込み踏査した、この膨大かつ詳細なマッピングの成果が、その後の遺跡地図作成や各研究論文等における基礎資料となりました。これを契機に空白地帯であった阿蘇谷にも各種開発事業に伴い発掘調査が実施されるようになり、数多くの貴重な遺跡の存在が明らかになりました。その後の成果は皆さんがご存知の通りです。遺跡というのは郷土の先人が土地に刻んだ文化の証であり、私たちの貴重な財産として後世に伝え、大切に取り扱わなけれ ばならないものであると思います。近年は測量機器や技術の発展、最新テクノロジーである保存科学など他の学術分野も加わり、発掘調査は過去とは比べものにならないほど目覚しい進歩を遂げています。アナログ過ぎる分野だった考古学界もデジタル化が進み、それによって遺跡から得られる情報量も増加し、より信憑性が確かなものになっています。ときに過去の考古学の調査が非難されていますが、それは当時の技術力を結集して精一杯努力した結果であり、研究の積み重ねや時代の進歩にはかなわないのが 当然かと思っています。真面目な話になりましたが、無理もないということをどうかご理解下さい。■文 緒方徹(阿蘇町教育委員会・学芸員)
 地学
ヨナの色
『谷人』10号より抜粋)
 火山灰のことを阿蘇で"ヨナ"と呼ぶことはよく知られていることです。ヨナという漢字は「霾」という字が使われますが、これは広辞苑にも載っていますのでただの方言とも違うのかもしれません。阿蘇中岳が噴火活動をする際、ストロンボリ式噴火をするとよく言われますが、これは見た目に派手で視覚的に人目を引くためにそういわれるのです。確かにストロンボリ式噴火は中岳としては 活動の最盛期に見られることが多いのですが、中岳の"本領"は火山灰噴出にあります。中岳のマグマは玄武岩質安山岩で、比較的サラサラしたものです。そのために中岳の噴火活動は爆発的なものでなく、連続的に(悪く言えばとりとめなくダラダラと)火山灰を噴出する活動が続きます。このような噴火を阿蘇に特徴的なものとして「灰噴火」とよんでいます。 中岳黒噴煙次に火山灰の色について考えてみます。基本的には阿蘇の火山灰は黒い色(灰黒色)をしています(写真右、平成元年8月)。これはマグマの性質を反映したもので、火山灰粒子は火山ガラスを主とし、そのほかに輝石や斜長石などを含みます。つまり阿蘇で黒っぽい火山灰が降っているときにはマグマそのものが粉になって飛ばされている時だといえます。中岳本来の灰噴火をやっているときの産物です。灰噴火の時期に時折赤い(サビ色)の火山灰を出すことがあります。これはまさにマグマ中に含まれる鉄(磁鉄鉱)が酸化して錆びたために出るものです。たぶんマグマの供給量が一時的に衰え、マグマ頂部が空気に触れる時間が長くなるとこんなことが起きるのでしょう。昔から地元の人に「赤いヨナが降ると噴火はおさまる」と言われてきたそうですが、かなり当たっているのではないでしょうか。すごい言い伝えですね。中岳白噴煙またまれに白い火山灰(灰白色)を出すこともあります(写真左、平成元年10月)。このときの構成物には変質した粘土鉱物が多く含まれます。よく温泉地に行くと温泉が出ていたり噴気がある付近の岩石が白くなっていたり白く粘土化しているのを見かけることがありますが、それがそうです。つまり白っぽい火山灰を飛ばすときは水蒸気爆発など、爆発的な活動を行っているときで、マグマそのものではなく火口底や火道に元々あった変質した岩石を壊しながら飛ばしていると考えられます。以上のような"活動の履歴"は古坊中付 近に行くときれいな状態で見ることができます。ここ1000年ほどの間、現在と同じように黒、赤、白等の火山灰を何度も繰り返し噴出してきたことがわかります。また、今後そう遠くない将来に再び中岳の活動期が訪れるでしょう。 そのときにはヨナの色を見ながら活動の状態や予測をしてみるのも火山とのうまいつきあい方の一つかもしれません。■文 池辺伸一郎(阿蘇火山博物館長・学芸員) 

 植物学
「谷」の生物多様性
『谷人』7号より抜粋)
 ごく身近で低地から山地までの様々な自然を見ることのできる阿蘇。土地利用は大きく農地、草原、森林からなり、それらは不規則に入り混ざっています。このような草原、森林などがつくるモザイク状の植生には数多くの野生動植物が生息しています。最近、新聞紙上で「生物多様性」という言葉をよく目にするようになりました。生物多様性とは、最も単純には「その地域にすむ生物の種数の多さ」であり、人類の生存基盤として重要視されています。生物が餌やすみかとして利用する資源が豊富で多様なほど、生物多様性に富むといわれています。ところが農地・原野・森林の内部に入ってみると意外に動物も植物も種数が少ないことに気づくでしょう。農地が単純な自然であることは自明であり、森林は針葉樹の単相林が多く、草原はススキが大部分を占めています。とすれば、他の様々な植物が侵入する余地は、各々の土地利用の「境界」ということになるのではないでしょうか。実は、この「谷」で生物多様性を育んでいるのは、草原から森林へ、農地から森林へ、道から農地へ、あるいは道から川へ推移しているところなのです。そこは幾種もの植物の侵入が許される場所であり、それらの植物を利用する多種の昆虫が宿っています。そのような推移帯でヒトの働きかけと無関係なものはひとつもありません。この「谷」の自然の大部分は、太古から人々の営みによって形成された2次的な自然です。伝統的な生活の営みに起因して生息する貴重な生物は幾種もあげることができます。しかし、今や生活の変化から阿蘇の生物相も大きく変わろうとしているのです。■文 田上義明(白水村教育委員会・社会教育主事)

ハキダメギク『谷人』11号より抜粋)
 春、雑草との戦いが始まる。庭の芝が伸びる間に倍の背丈になっているほどの恐るべき成長力。一体どこから来るのか。勿論、雑草という名の植物はない。みんな学名と和名をつけられているわけで、「雑草」と一くくりにするのも失礼な話だ。 とは言え、優美な和名の植物がある反面、ひどい和名をつけられた植物も多い。昆虫などと違って「〜モドキ」や「〜ダマシ」はあまり聞かないが、カラス、スズメ、キツネ、イヌ、ヘビとつくものがアザミ、タデ、エンドウ、ウリなどで知られている。 それらは大抵有用な植物と似ているが、人間の役には立たない植物である。気の毒というほどの名でもない。しかし、大変ひどい和名をつけられた植物もある。有名なのはヘクソカズラ(アカネ科)。その臭いからであるが、別名はヤイト(灸)バナ、サオ トメカズラと全く違った趣の名前である。この他にもヨゴレネコノメ(ユキノシタ科)、ノボロギク(キク科)やサワギク(キク科)の別名ボロギク、ヤブガラシ(ブドウ科)の別名ビンボウカズラ、ワルナスビ(ナス科)などがある。ただし、クサレダマ(サクラ ソウ科)は、草連玉であって、腐れ玉ではない。ハキダメギク(掃溜菊)もある。掃き溜めとはひどい。花がみすぼらしいからか?と 思ったらそうではなく、掃き溜めで見つかったためのとのこと。そう言われても掃き溜めがどんな場所だかイメージがわかないのだが。ハキダメギクは熱帯アメリカ原産の帰化植物で、キク科コゴメギク属の1年草。大正時代、東京都世田谷で初めて見つかり、戦後急激に各地に広まった。和名をつけたのは有名な植物学者、牧野富太郎。窒素分の多いゴミ捨て場、畑の脇などに繁殖する。道理で周りの田畑に多いわけだ。花は5ミリほど。2種類の花から構成されている。白い花びらを持つ舌状花は、5個ほどしかなく、花びらの先端は3つに裂ける。よく見ると美しい。花の多くを占めるのは花びらを持たない筒状花である。種子はタンポポの種子と綿毛を小さくしたような感じ。葉は対生。葉同士が重なり合わないように90度ずつずれてついていている。光を沢山受けられるようになっているのだが、造形美を感じずにはいられない。茎は直立していて10〜60センチになるというが、この近辺では30センチほどにしかなっていない。小さいうちは花の数は少ないが、枝分かれをしながら大きくなり、花の数も増えていく。体が小さいと 花の数も少なくなるので、大きい方がいいのだが、大きくなるのを待っている間に死んでしまうこともある。だから早くから花を付ければ、たとえ1つの花しかつけられなくとも種子を残すことができる。そうやって繁殖のチャンスを増しているのだろう。花期が春から秋と長いことも繁殖力の秘密に違いない。引き抜いてみると根は土を抱えたまま抜けてくる。地上に見えている部分よりも意外と横に広く伸びているのが分かる。地中深くに伸びると言うわけではないようだ。しかも乾燥に強いのか、根の成長が早いのか、引き抜いた後そのまま放置しておくと再び根付いている。また英名にhairyとあるように、がく、茎、葉と全体に毛が生えている。虫に食われないようにしているのだろうか。毛が嫌なのか、美味しくないのかは分からないが、虫食いのある葉をほとんど見ない。「掃き溜め」なんて言葉も使わなくなった昨今、もし現代の人がハキダメギクに和名をつけるとしたらなんとつけるだろうか。自分で和名を作ってみるのもオツなものだと思うのだが。何人か集まって「名付け会」をするのはいかが?■文 大川あゆ子(元阿蘇たにびと博物館・学芸員)

 動物学
南阿蘇の水系
『谷人』8号より抜粋)
 熊本の代表的な河川には白川、菊池川、緑川、球磨川があります。阿蘇に源を持つ白川には、上流部に白川水源をはじめとする多数の湧水地があり、清らかな水は小川を通じて白川へ流れ出ています。それだけ白川には清流特有の生物が数多く生息しているように思えます。ところが、これらの4河川の中で最も魚相(その地域にみられる魚の種類全体)の乏しいのは白川(特に上流部)です。昭和54年に阿蘇山が大噴火しましたが、白川には火山灰(ヨナ)が堆積し、水は灰色に濁っていたのを覚えています。この時、大部分の魚をはじめとする水生生物が死滅したものと思われます。白川は古来、何度も火山灰の影響を被ってきたため生物が定着できず、さらに大雨の際の急増する水量と濁流が拍車を掛け、その上、長陽村の大きな滝により下流域と完全に分断されているため下流域からの魚の侵入を許さないことが、魚相が乏しくなっている原因であると考えられています。大噴火の後、白川の生物は殆ど死滅しますが、数年経過すると次第に元の魚相を回復します。どのようにして回復するのでしょうか。1つは運よく生き残った魚の繁殖による回復です。しかし、もっと大きな可能性が別に考えられます。火山灰の影響を受けない水系に生息する魚が、白川に新たに侵入することによる回復です。火山灰の影響を受けない水系とは、実は南阿蘇に数多くある湧水地と、それらの湧水地と白川を結ぶ小川なのです。これらの水系は、火山灰の影響を受けないだけでなく、大雨にも左右されにくく年間を通じて水量が安定しているので、生物にとって大変棲みよい環境であり、タカハヤ(アブラメ)、サワガニ、ホタル、カワトンボなど主に清流を好む生物が生息しています。南阿蘇では、白川本流よりもむしろこのような水系の方が生物多様性に富み魅力的であり、且つ重要ではないでしょうか。火山噴火という生態的な撹乱を切り抜けた生物によって構成され、噴火―絶滅―侵入―定着の繰返しで維持される生態系、これが南阿蘇の水系の特徴であると言えます。■文 田上義明(白水村教育委員会・社会教育主事)

草原と糞虫『谷人』9号より抜粋)
 糞虫(フンチュウ)とは牛や馬など動物の糞を食料にする甲虫類のことです。「ふんころがし」と言えばすぐに理解できると思います。ただし、日本の糞虫はほとんど糞を転がすことはありません。牛の放牧の盛んな阿蘇の草原 には何十種類もの糞虫が生息しており、糞の分解、肥料化、清浄化、ハエの発生の抑制など生態的に非常に重要な役割を担っています。海外では家畜の糞の処理をさせるため糞虫が導入された事例があります。糞と聞いただけで汚いと連想されがちですが、糞虫は形態、色彩ともにとても魅力的な種類が多いのです。カブトムシに負けない見事な角を持つ種や、金属色を持つ美しい種がいます。たとえばゴホンダイコクコガネはその名のとおり五本の角を持ち、センチコガネは、同一種であっても個体それぞれ赤紫、青、緑など異なった色に輝いています。ほかの地域では同じ色彩の個体しか認められないところもあり、阿蘇のセンチコガネの色彩が多様なのは、それだけ草原が広大で豊かな環境のせいかもしれません。それぞれの種の糞虫は、全てが同じところで同時に見られるのではなく、季節、場所、標高、糞の質、日当たり具合など環境のさまざまな違いをすみわけて生息しています。このことは、ある場所で牛の放牧をやめれば、ある種が減衰する可能性を示唆し、同時に、 阿蘇の多様な糞虫相を維持してゆくためには、いろいろな場所で放牧が行われるのが望ましいことを意味しています。近年、形態や色彩の魅力的な種ほど減少し、ある特定の種ばかりが多く見られるようになってきている気がします。畜産業の衰退に伴う草原の消失は、野草やオオルリシジミの減少を招くといわれますが、糞虫も例外ではありません。糞虫といえども阿蘇の魅力のひとつと捉え、後世に残していきたいものです。■文 田上義明(白水村教育委員会・社会教育主事)