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Questionnaire; all about Aso
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阿蘇たにびと博物館は、阿蘇の自然や文化を調査研究し、阿蘇全体を博物館として普及教育する機関です。
Aso Tanibito Ecomuseum is an institute to research and guide nature and culture of Aso, Japan.


このページでは、阿蘇や博物館に関する質問を受け付けます。阿蘇や博物館に関して知りたいことや、 宿題のお助けでも構いません。ご質問内容と、お名前(ペンネーム可)、職業(学年)、お住まいの都道府県名を メールでお送り下さい。 ご質問はそれぞれ当館の客員学芸員さんたちにお尋ねして、回答を頂けましたらこのページに掲載されます。



(例)#0000
 こんにちは、宿題で阿蘇のことを調べています。阿蘇の神社で、女の子がずっと火を焚くお祭り?があると聞いたのですが、 これはどこでいつ頃やっているのか教えて下さい。

はるか(小学生・福岡) 11/12/2003

 はるかさん、こんにちは。おそらくそれは阿蘇町役犬原にある霜宮の火焚き神事のことと思います。阿蘇に霜を降らせる 鬼八(きはち)の霊をなぐさめるために、毎年8月13日〜10月29日に行なわれていますよ。

■梶原宏之(阿蘇たにびと博物館・学芸員/民俗学) 11/14/2003
#0001
 こんにちは、阿蘇のカルデラの規模に近いところというと世界的にはどんなところがあるのでしょうか?

ゆきーた(主婦・熊本) 11/07/2003

 こんにちは、お返事が遅くなりすみません。世界のカルデラというのはなか なかはっきりしていないところがあって、 またその大きさ(規模)といってもきちんと数値で表すのが困難なことも 多いようです。というのは、カルデラと一口に言っても、その定義は“火山 性の大きな窪地で、おおよそ直径2kmを超えるもの”という曖昧なものです。 読んでお分かりのとおり、その成因には言及してはいません。従って、 カルデラには火山噴火に伴う陥没によるものの他、火山噴火そのもので大き な火口ができる場合にもカルデラと呼ぶこともありますし、浸食によって できたものもあります。雲仙の西の千々石湾はカルデラといわれていますが、 ここは火山噴火と千々石断層など、構造性の要因も加味されたカルデラです。
 また、カルデラでも古いものは外輪山自体が浸食を受けてカルデラ地形が 残っていないところも多くあります。九州でも傾山にそんなところがあって、 地形に残っていなくて、地質的にはカルデラだというのは「コ−ルドロン」と 呼ばれています。
 こんな感じですので、世界のカルデラといってもその規模や形をまとめた ものはありそうでありません。従って、このような質問に対しては、答える のが非常に困難です。信憑性はともかくとして、私が知っている限りでまと めた唯一の資料は東海大学出版会の『阿蘇火山』です。そちらでお持ちです か?きちんとしたお答えになっていませんが、ご不明であればまたお尋ね下さい。

池辺伸一郎(阿蘇火山博物館・館長/火山学) 11/16/2003

谷博注:ご紹介の資料『阿蘇火山』では、例えば 米国コロラド州のクリーデカルデラ(径22km)、ヴァイアスカルデラ(径20-25km)、 中米グァテマラのアティトランカルデラ(径18-25km)、同モユタカルデラ(径17-21km) 辺りが近いようです。また、コールドロンの例としては米国コロラド州のサン・ジュアン・ コールドロン(径22-42km)や、インドネシアスマトラ島のトバ・コールドロン(径28-96km) があげられていますよ。この文献は当館のミュージアムショップでも販売されています。 左のフレームの「販売」からどうぞ。

#0002
 北海道赤井川村はカルデラの中にある数少ない行政の一つだと思っています。質問箱の中で世界の カルデラを知る事が出来たのですが、その中に行政が存在する所はあるのでしょうか?御願い します。

滝本和彦(農業・北海道) 02/11/2004

 滝本様、こんにちは。”赤井川カルデラ”については、確かに昔からカルデラ地形を示す ということで、そのように言われてきたようですね。 火山学会のHPに、 学会へ寄せられた質問に対する回答がありますので、その一部を転載してみます。
----------(ここから転載)----------
赤井川村盆地は確かにカルデラのように見えます。赤井川は昔からカルデラの可能 性が指摘され、いくつかの調査・研究が行われてきました。カルデラであることを 実証するには、地形の他に、カルデラ形成に伴って 放出された大量の火山噴出物 (火砕流)が周辺に分布することが必要です。そして大量のマグマが出たことによ り、カルデラ底の地下が軽い物質で占められていることを重力測定で示すことも重 要な証拠となります。赤井川の場合には重力測定によりカルデラである可能性は指 摘されていますが、カルデラ周辺の火砕流については確実なものは見つかっていま せん。ただし可能性のある火砕流は点在しています。この火砕流がカルデラ形成に 伴ったものであれば、カルデラ形成は150-200万年前頃になります。さらなる調査が 必要ですが、火砕流が古いために露出が悪かったり、侵食が進んでいるため、結果 は芳しくありません。
----------(転載ここまで)----------
 このように、”赤井川カルデラ”は、その可能性はあるものの、火山学的にはいわ ゆる大量の火砕流を噴出したあとに形成される陥没カルデラなのかどうかはよくわかって いないようです。しかし、そうでなくても火山性の凹地であればカルデラと呼んでもいい わけですので、成因的には浸食であれなんであれ、カルデラと呼ぶのは差し支えないで しょう。
 さて、滝本様からの質問に対する答えですが、”カルデラの中に行政が存在する・・・”、 つまり”カルデラの中に人々の生活の場がある”ということでとらえていいのであれば、 多くのカルデラではそうだと思います。もちろん十和田や屈斜路のように湖になっていたり、 姶良のように海中にあるところも多くありますが、陸上のカルデラではそれぞれに人々の生 活が営まれています(阿蘇、加久藤、箱根、濁川など)。

池辺伸一郎(阿蘇火山博物館長・学芸員/地学) 02/14/2004

谷博注:阿蘇もカルデラの中に6つ(一の宮町、阿蘇町、 長陽村、久木野村、白水村、高森町)ありますよ。

#0003
 こんにちは。ほんとうに素朴な疑問なのですが、阿蘇山って、「あそさん」なのか 「あそざん」なのかがまわりの皆で話題になりました。関東のひとはほとんど「ざん」派 なのですが、私を含めて阿蘇のひとは「さん」だとばかり思っていました。国土地理院の 地図を引っ張り出してみたら、ルビはないし。気になりますので教えてください。

わからん子(熊本) 02/19/2004

 わからん子さん、こんにちは。尋ねられる地元の側としては気になるところ ですね。地形図については国土地理院さんにも確認しましたがアソサンのようです。 コンサイス地名辞典でもそうですし、阿蘇山測候所もアソサンですし、阿蘇を代表 する古刹である西巌殿寺の山号「阿蘇山」もアソサンですから、やはり正式には「あ そさん」が正しいでしょう。日本語はなんとも難しいですね。また何か気づきましたらお尋ね下さい。

梶原宏之(阿蘇たにびと博物館・学芸員/民俗学) 02/20/2004

#0004
 早朝から素朴な疑問で誠に恐縮ですが、内の牧の地名の由来について教えて頂ければ幸いです。 内の牧の地名は本来、外輪山内側全ての地域を指すものだったのでしょうか? JR内牧駅の看板に「その昔外輪山の外側(南郷谷)を外牧、その内側(阿蘇谷)を内牧と いったことから駅名となった」との解説があり、素朴な疑問を感じました。

T.W(派遣社員・熊本) 07/05/2004

 これは驚きました。内牧について、そういう説明は初耳です。これはJRさんがご自分で書かれたのか、 それとも阿蘇町教育委員会さんが少し関与されたのか・・ということで、阿蘇町教委の緒方学芸員に 問い合わせてみました。
「お疲れさまです、内の牧、外の牧の件ですが、看板自体は阿蘇町及び教育委員会が設置したもの ではないようです。以前、何かの本に書いてあったような記憶がありますが、どれに書いて あったか思い出せないので、少々調べる時間を下さい・・(後日談)設置場所はJR内牧駅で JRが建てたみたいですね。職場の姉さんに撮影してきて頂きました。根拠は未だ分からずです」
 ということで、なぜJRさんがこんなことを書かれたのか不思議です(^^; 内牧の地名の 由来は、延喜の頃(平安時代)に編集された国の決まりごとである『延喜式』のなかに「二重の牧」という地名が あり(おそらく今の二重峠の辺りではないかと言われています)、それに対応して今の内牧がそう 呼ばれたのではないかとされています。ですから、阿蘇谷が内牧で南郷谷が外牧というのは、そこからきた 勘違いだろうと思います。

梶原宏之(阿蘇たにびと博物館・学芸員/民俗学) 07/10/2004

#0005
江戸時代、阿蘇の農民はどのような代物で年貢を納付していたのか、とても興味があります。 阿蘇は平地が少ないので、土地もやせているし、米では大変だったのではないかと想像しています。 現実はどうだったのでしょうか?

T.W(派遣社員・熊本) 08/03/2004

 T.Wさん、こんにちは。返事が遅くなって申し訳ありませんでした。 さて、ご質問の件ですが、確かに阿蘇郡では昔から平地が少なく、土地もやせてお り、さらには高冷の地です。実際に県内の他の地域と比較しても米の生産力は低く、 ご指摘の通り米作には不向きの土地であったと言えるでしょう。しかし、江戸時代の 年貢は米納が基本であり、それは阿蘇郡でも例外ではありませんでした。阿蘇の農民 たちも、主に米で年貢を納めており、不作などにより米納が出来ない場合には、銀で 納入する仕組み(「銀立」と呼ばれています)になっていました。
 もちろん、江戸時代の阿蘇郡でも、米以外の作物の生産は行われていました。米の生 産力の低さを補うために、農民たちは主食となるトウモロコシを栽培しています。ま た、タバコ・菜種・茶などの商品作物を栽培することで、米不足による経済面の困窮 を補おうとしていました。その他の主な生産物としては、麦・大豆・蕎麦・芋などが 挙げられます。もっとも、これら生産した作物に対しても税は課せられており、その 際には換算された分の米、もしくは銀で納められていました。
 と、上記のようなお答えをいたしましたが、江戸時代に阿蘇で上納していた租税の種 類に関しては、未解明の部分が存在するのも現状です。私が今回参考にした文献を付記 するとともに、こちらで新しいことが分かりましたら、また追加で記載したいと思 います。
*参考文献
・長陽村教育委員会編『古跡と伝承』(長陽村誌第1集)、長陽村、1981年
・長陽村史編纂室編『長陽村史』長陽村、2004年
・吉村豊雄『藩制下の村と在町』(一の宮町史3)、一の宮町、2001年
・嘉悦渉編『戦後農業と町村合併』(一の宮町史6)、一の宮町、2001年

今村直樹(熊本県庁文化企画課非常勤職員・学芸員/歴史学) 08/18/2004

#0006
こんにちは。私は今課題で阿蘇の言い伝えや伝説を調べているのですが、ちょっと気に なることがあります。人づてに聞いたのですが文献がなかなか見つからなかったため メールしました。妊婦は阿蘇へ行ってはならない。おなかの赤ちゃんに阿蘇で亡くなった 人の魂が入ってその人が蘇るという感じの話しなんですが(うろ覚えですいません) 最近はやった映画「黄泉がえり」や阿蘇の地名に蘇るという字が入っていたためなにか いわれがあるのかと思いました。

にょも(専門学校生・熊本) 11/01/2004

 にょもさん、こんにちは。阿蘇の地元ではそういうお話は今のところ聞いたことがあり ません。ただ、民俗学的にはたとえば「妊婦が妊娠した牛に近づいてはならない」(どちらかが 負ける)とか「妊婦は火葬場に行ってはならない」「火事場を見てはならない」(赤アザができる) 「葬式のときに仏さんの上を猫に通らせてはいけない」(猫の魂が入る)などという言説は全国にも 広いので、それらや「黄泉がえり」などの印象が入り混じった都市伝説がどこかで生まれたの かもしれません。魂が入るといわれる猫に関しては、阿蘇の根子岳まで猫が参るという伝承が福岡 にもありますので、そのへんで話が混じっているのかもしれません。
 逆に、妊婦やそれを望む女性が近寄ったほうがいいとされる場所は阿蘇にもたくさんあります。 たとえば飲むとお乳の出が良くなるという水源(阿蘇町狩尾の産神社)や触ると乳が出るという銀杏の 木(白水村吉田の明神池)、それに股に挟むと子どもが授かるという石(阿蘇町乙姫の子安河原観音) などなどです。阿蘇には約5万人もの人々が生活していますから、もしにょもさんのいわれるような 伝承があったとしたら、とても大変なことになると思います(^^;
 地名の話でいえば、アソに蘇という文字が使われていることには、それほどこだわらない ほうがいいかと思います。たしかに『隋書倭国伝』(7世紀初めの中国の歴史書)に「阿蘇山有り」と 出てきますが、『筑紫風土記』を見ますとアソは「閼宗」と書かれています(ちなみに閼の字は塞ぎ留めると いう意味です)。アソという音はアイヌ語で解釈できるという人もいればポリネシア語で 解釈できるという研究者もいてさまざまです。

梶原宏之(阿蘇たにびと博物館・学芸員/民俗学) 11/01/2004、11/11/2004改定

#0007
お疲れ様です。素朴な疑問が二つあります。
1) ミルクロードの名前の由来について教えて下さい。
2) 内牧の中心部に三日月池がありますが、あれは黒川の名残なのですか?
以上です。お忙しい中、すみません。ご回答をお待ちしています。

T.W(派遣社員・熊本) 11/04/2004

A1  ミルクロードは正式には広域営農団地農道といい、昭和41年(1966)に着工された国営大規模 草地改良事業に伴ない熊本県が施工した道です。あか牛ばかりだった当時の阿蘇にジャージー種や レフォード種、アバーデンアンガス種などの外国牛が次々に導入され、大規模な酪農団地造成と その出荷を狙って整備された道ですから、その名がついたのではないかと思います(ちなみに、 当時の目論見はことごとくはずれ、この計画はほぼ失敗に終わっています)。
 なお、命名の経緯に関する資料はなかったため、11月8日付けで熊本県阿蘇地域振興局土木部 維持管理課宛てに問合せメールを出しました。お返事が来ましたらご紹介しますので しばらくお待ち下さい。

梶原宏之(阿蘇たにびと博物館・学芸員/民俗学) 11/11/2004

A2  内牧の三日月湖ですが、あれは全くその通り、黒川の名残です。 地形図を見るとよくわかりますが、黒川は結構な”あばれ川”だった (今でもその可能性はあると思いますが・・)ようです。白雲山荘の 堀?も昔の川の流れた跡を利用したものですね。  それから阿蘇町の小野原遺跡周辺で、貯水池を造るために大がかりに 掘削されていましたが、そのときの地層断面からも、黒川が次々に河道を変えていった 様子が見て取れました。  やはり、数千年前頃から阿蘇谷でも(部分的に点在した程度では なかったかと思いますが)湖が存在していたことから、谷全体の 水位が非常に高く、そのために川が流れる道も安定していなかった のだろうと思います。同時に、水位が高ければ大雨によって洪水を 起こすことも多かったでしょうから、そのことも河道が不安定だった 要因ではないでしょうか。

池辺伸一郎(阿蘇火山博物館長・学芸員/地学) 11/05/2004

#0008
 こんにちは、お尋ねします。先日仙酔峡を登りましたら、辺りの岩肌が どれもピンク色をしていました。最近宇土の「馬門石」でも話題になっている 「阿蘇ピンク石」と何か関係がありますか?お忙しいところ恐縮ですが、 どうぞ宜しく教えて下さい。

はち(自営業・熊本) 11/07/2004

 はちさん、こんにちは。仙酔峡の岩肌の色は、すべて表面だけのものです。 あの付近は、中岳、高岳、および鷲ヶ峰火山の溶岩やアグルチネ−ト(ストロ ンボリ式噴火の産物)が交錯している場所でして、すべて玄武岩質の安山岩です。 あの付近の溶岩やアグルチネ−ト(見た目にはほとんど変わりはありません)の 表面は比較的なめらかな感触で、なおかつ赤褐色をしていますよね。あの色は (きちんと研究して論文化したものはありませんが)、火山ガスの成分が岩石 表面に付着し、それが空気中の水分(霧など)や雨などに溶けて、希硫酸または 希塩酸の状態になり、さらにそれが岩石表面を溶かしたためだと思われます。 したがって、ハンマ−などであの付近の岩石を割って、新鮮な面を露出させると 本来の黒っぽい姿を見ることができます。
 宇土の“ピンク石”は、ご存じのように、阿蘇4火砕流による溶結凝灰岩です。 あのピンク色は、火砕流中に含まれる磁鉄鉱などの鉄分が酸化によって 赤くなったものです。ちなみに、“馬門石”は、石棺として当時の中央で 使用されたことがわかったために有名になりましたが、同じようなピンク色を した阿蘇火砕流は各地に存在することがわかっています。馬門が、良質の ピンク石を多量に産し、なおかつ運搬に適した海岸近くにあったということが 中央での使用を可能にしたのでしょうね。しかし、なぜわざわざこんなに 地方の石を使ったのか…。あの程度(といっては失礼ですが)のピンク色の 石をわざわざ宇土から運ぶ意味は何だったのでしょうね(*)。その付近は、 非常に興味のあるところです。また、なぜ阿蘇4火砕流が場所によって 酸化の仕方が違うのか。そんなことも、考えればいろいろ興味は尽きませんね。

(*) “ピンク石”の石棺は、当時熊本大学の渡辺先生と宇土の高木さんが 阿蘇の溶結凝灰岩だと証明するまでは、すべて“二上山ピンク”と 呼ばれる二上山の凝灰岩だと信じられていたようです。私も 機会があって、一度その“ピンク石”を見に連れて行ってもらいましたが、 ピンクというよりも白色〜やや紫がかった白という感じでした。それに 比べると、やはり馬門石は“立派”なのかもしれません。

池辺伸一郎(阿蘇火山博物館長・学芸員/地学) 11/05/2004

#0009
 「万里の長城」(土塁)を作るため、「芝土切り」をするのに「備中鍬」をヤスリで 研いで切れ味を良くし能率向上に努める、と「内牧花原川を守る会」の会報にありますが、この「備中鍬」の 形状はどのようなものですか。一般的には、「備中鍬」は、3〜4本の刃部を持つ形状の鍬を指しますが、 芝土を切るには、その形状は不向きのように考えます。地域によって鍬の名称はさまざまなので、どのような 形状の鍬なのか教えてください。ちなみに、福岡の筑後地方の一部では、平鍬の小型のものを「備中鍬」と呼び、 三股の鍬は、三本鍬と呼んでいます。
 熊本県では、かって「備中鍬」を開墾に使ったという調査報告があると聞きますので、この「備中鍬」も、 「芝土切り」に使った鍬と同じ形状のものだったのではないかと考えお尋ねする次第です。よろしくお願いします。

中野正俊(農業・福岡) Mar/23/2007

 中野さん、こんにちは。お返事遅くなりましてすみません。出典を色々調べてみましたが、どうもネット上の 情報やその「花原川を守る会」会報という情報も、元々の出どころは大滝典雄先生の『草原と人々の営み』(一の宮町史10、 1997年)の孫引きのようですね。内牧の図書館にも入っていなかったので会報は確認できませんでしたが、環境省が ネット上で引用している文体を見るとそっくりです。大滝先生の原本にも確かに「備中鍬」と書いてあります。たしかに 一般に備中鍬といえば3〜4本の爪を持つ鍬をいいますが、しかし阿蘇ではどうも普通の平鍬の小型のものをそう呼んでいるふしが あります(花原川を守る会のある方にうかがったときも、爪のある鍬は「備中鍬」ではなく、阿蘇ではそれはヨツグヮなどと 呼んでいるというお話でした)。
 それでは阿蘇で土塁を作るときの鍬はどのようなものだったかですが、ちょうど大滝先生の著書のコラムに写真入りで 紹介されていますのでご紹介します(119頁)。阿蘇では土塁づくりを「土手つき」と呼んだので、この鍬も「土手つき鍬」と 呼ばれていたようです。柄は短く、鍬先の角度は写真で見ると50度くらいでしょうか、いわゆる打ち引き鍬の一つと思われます。 鍬先は芝を切ったり火山灰土を突くためか丸みを帯びていて、長さは30センチくらいでしょうか。ただ個人に合わせた特別注文 とあるので差異があるかもしれません。いわゆる肥後鍬とも唐鍬とも違う もののように見えますが、これを「備中鍬」とも呼んだのでしょう。 理由はまだ分かりませんのでもう少し調べてみます。不明な点はまたお尋ね 下さい。

梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員/民俗学) Mar/31/2007

#0010
 私は、白水村吉田新町出身の藤本といいます。阿蘇博物誌の冒頭に産婆さんの話があり、その中に 「藤本さん」のことが書いてありますが、この「藤本さん」は、私の母「藤本かなえ」のことです。 母は戦争に夫をとられ、苦労して子供4人を育てました。阿蘇博物誌に末永く母の名前をとどめて頂き、 心から感謝しております。 また、博物誌の中には、子供のころ聞いた記憶がある人のお名前が次々に出て来て、懐かしさで いっぱいです。もう60年近く前の話ですが、私は大津高校を卒業後、東京の大学に進学しましたが、 いろいろ各地を回って、現在埼玉県に住んでおります。
 さて、前置きが長くなりましたが、子供のころ、白川と高森の間に、県道から北側へ離れた畑の 中に豆塚という名の塚があり、遠足などのとき、そこで弁当をたべた記憶があります。成人して 考古学に少しばかり関心を抱き、この豆塚は古墳ではないかと考えるに至りました。この豆塚は 調査されたことがあるのでしょうか。また、高森町、南阿蘇村の教育委員会などはどのように 考えておられるのでしょうか。ご意見をいただければ幸いです。

藤本正明(埼玉) Feb/18/2008

 藤本様、こんにちは。一度メールでもお返事差し上げましたが、ひょっとしたら こちらをご覧かと思い掲載いたします。ご意見・ご質問ありがとうございます。 藤本かなえ様の文章の部分は、2007年に発行しました『白水村史』にも掲載させて 頂きました。お話は記載しておりますとおり、吉田新町の塚本サヨ子様 よりお聞きしました。大変ご苦労されて皆さまを育てられたこと、 初めて知りました。どなたにも堂々たる人生があり、それを 記録し次世代に引き継いでいくのが博物館の仕事と思いますので、 これからもどうかご教示頂ければ幸いです。
 さて豆塚ですが、昭和54年に発行された『高森町史』をみますと、まだ この時点では何ら考古学的調査はされておらず、単に「墳丘であると 想像される」との記載でした(執筆された地元のかたは「豆塚(馬見塚)古墳」 と表記されておられますが…)。
 その後、何か新たな調査がなされたのかどうか、高森町教育委員会の 東さんからお話頂きましたので(有難うございます)ご紹介いたします。
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こんにちは、社会教育を担当の東と申します。よろしくお願いします。 早速ですが、高森町豆塚古墳の件についてお知らせします。 昭和47年6月に測量調査を行っております。発掘等は行っておりません。 現在のところ、発掘の予定はありません。 付近畑の農耕の関係から欠けがみられます。
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国道から見た豆塚(↓部分)  大きさや高さ等、測量だけはされましたが、考古学的調査(発掘)は残念ながらその後も されてはおられないとのことです。つまり、古墳なのかどうか未だに不明であります。 さらに新しい宅地開発等によって少し丘陵の形も削られてしまっているようです。 その中で土器など遺物が発見されたという話も残念ながら聞きません(『高森町史』には 「附近の畑から弥生式土器片発見されたことはある」とはありました)。また、高千穂町の 緒方学芸員(考古学)に少し尋ねてみたところ、「ただの丘にしては少し大きいかもしれま せんね。古墳とすればこの辺りでは大きなものになるでしょう」とのことでした。
 以上、申し訳ないことに科学的証拠はいまだ何も出てきていないという状況でした。 地元(高森)の人に尋ねたら、「あそこは(祟りが)恐くて誰も掘れん」と言われる かたもおられました。また何か新しいことが分かりましたらここでもお知らせ いたします。取り急ぎ以上まで、失礼いたします。

梶原宏之(阿蘇たにびと博物館長・学芸員/民俗学) Apr/03/2008